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恒山の仙跡:典籍に記される玄岳の仙人(一)


古来より、名山には仙人の足跡が多く見られるものである。北岳・恒山は道教の重要な発祥地の一つとして、古来より「玄岳」と称され、洞の名は太乙、地号は金城とされ、まさに修仙・道を求めんとする洞天福地であった。典籍に記されるところによれば、ここにおいて仙人に昇った者は凡そ七十戸に及び、そのうち記録に残る者も八、九人に上る。彼らは深山に隠れて辟穀し気を練り、あるいは術を施して世の人々を済度し、この雄奇な山岳に濃厚な仙韻を添え、人々の口に上る数々の神仙の佳話を後世に伝えてきたのである。

恒山の仙縁は、その起源を上古の時代にまで遡ることができる。『衆仙記』によれば、黒帝たる顓頊氏はかつて太恒山を治め、華夏の上古における帝王の神性と恒山の山水の霊気とを結びつけ、この山岳に生まれつき備わる神聖な基調を定めたという。五岳の一つとして、恒山は天地の造化の気を宿し、北方の天地秩序の象徴であると同時に、上古の先民の心の中にあって人間と天をつなぐ神山でもあった。この洪蒙に由来する仙韻こそ、後世の仙人たちがここにおいて修行を重ねるための伏線となったのである。

恒山に伝わる数多くの仙人のうち、昌容は比較的早く文献に登場する一人である。据 『列仙伝』 前述のとおり、昌容は常山(恒山の古名)の道士であり、自らを殷商の女子と称し、長年服食してきた。 蓬蔂の根 恒山の麓を行き来し、三百余年にわたり、彼女に面した者は皆、その容貌は常に二十歳ほどの娘のようであり、老いの兆しすら見られないと口々に語った。その修行の深さは、まさに一目でわかるほどであった。彼女は名利を慕わず、ひたすら静かに過ごし、草木を糧として、恒山の山河と一体となりながら修仙の道を歩んだ。こうして、彼女は恒山における初期の修仙者の模範となり、「蓬を食し、辟谷を行う」ことが、恒山の仙跡を象徴する象徴的なイメージとなったのである。

恒山の仙人といえば、最も名高いのは三茅真君であり、なかでも長兄・茅盈の修仙の事績が最も詳しく伝えられている。『広列仙伝』によれば、 マオ・イン 字は叔申で、上古の仙人・茅濛(字は初成)の玄孫に当たる。茅濛は周の末年に華山に入り修練し、秦始皇三十年には龍に乗って白日昇天した。生前から童謡によってその玄孫・茅盈もまた仙人となると予示されており、これを聞いた始皇はさらに旧正月を嘉平に改め、敬意を表したという。茅盈は漢の景帝中元五年に生まれ、幼い頃から常人と異なり、清虚の道を好んでいた。十八歳のときには毅然として家を捨て、恒山へ入り修行に専心し、蒼術を服して一心に道を修めた。のちに王君を師として仰ぎ、西方へ旅して亀山に赴き西王母に拝謁し、『太極玄真之経』を授かった。四十九歳のときには再び恒山の北谷へ戻り、さらに修行を続けた。

茅盈は道を成してから、なお存命の両親を訪ねるために家に帰った。父は彼が長く遠くへ旅立っていたことを激しく怒り、杖で打って懲らしめようとした。茅盈はひざまずいて深く罪を請い、すでに聖師の符籙を授かり、天兵の護衛に身を守られているのだから、もし杖で打てばかえって天兵がそれを妨げ、かえって自らの罪を重くするだけだと申し上げた。しかし父は信じず、あくまで杖を振るおうとした。ところが竹の杖が茅盈に触れた途端、たちまち数十に折れ、矢のように飛び出して壁を貫き、柱に突き刺さった。そのときになって初めて、両親は彼がすでに得道したのだと悟った。のちに、茅盈の二人の弟・茅固と茅衷もいずれも高い地位に就き、茅固は執金吾となり、茅衷は西河太守となった。赴任の際には郷里から数百人に及ぶ送別者が集まった。茅盈は席上、自分は高官には就かないが、来年の四月三日には仙人となるのだから、その場の盛況はあの日にも劣らないだろうと笑って述べた。

漢の宣帝初元四年四月三日、茅盈の門前に数頃の地が自ら整えられ、寸草も生えないほどに平らにされた。その地上には青い絹の幕と白い毛氈が敷かれ、数百人を収容できるほどの広さであった。諸賓が一同に集い、宴席には誰一人として仕える者もなく、ただ金の盤と玉の杯が自ずと筵の前に現れ、美酒と珍味、奇果と至宝が目まぐるしく並べられ、絲竹や金石の音が絶え間なく耳に響き、蘭や麝の香は幾里にもわたって遠くまで漂った。やがて、朱衣に玉帯を身につけた迎官数百人が旌旗と甲冑の輝きを日光に映えさせながらぞくぞくと押し寄せ、茅盈は家人および親友たちと別れを告げて車に乗り込み、雲に乗ってゆったりと昇天した。兄の飛昇を聞いた茅固と茅衷は、ただちに官を棄てて家に帰り、東山へと兄を探しに行った。すると、茅盈が現れて二人と対面し、すでに年を重ねているからこそ天仙には及ばないものの、延年不死の法と上道を授け、三年にわたり長斋を励むよう告げた。さらに九転還丹と神方を贈り、二人は心を込めて修行に専念し、ついには道を体得して仙となった。後世の人々はこの三人を総称して「三茅真君」と呼び、恒山の仙跡の中でも最も影響力のある伝説となった。

北魏の時代、恒山にも仙人の足跡が見られ、李皎はその一人であった。『北史』によれば、李皎は中山の人で、著名な道士・寇謙之の弟子であった。彼は数十年にわたり気を服し、穀物を絶って過ごし、やがて恒山に隠棲したが、九十歳を過ぎてもなおその容貌は少年のようであった。ある日、李皎は沐浴して身を清め、端然と座ったまま亡くなった。世の人々は皆、彼が屍解して仙となったのだと考え、恒山における仙人の「屍解して仙へと昇る」という伝説をさらに深めたのである。寇謙之はかつて遺訓として、恒山に「上は霄に延び、下は騒ぎと浮き世を絶つ」空中の寺院を建立せよと残しており、李皎はその弟子として恒山で修業に励んだことから、この山岳に宿る仙気には時代の刻印も加えられたのであった。

恒山のなかには、なお名もなき仙人がおり、その事績は……に見られる。 『北斉書』 この恒岳の仙人は、道教の符水や呪禁の術を極め、薬の性質にも通じていた。北斉の人である吾道栄はその名を慕って訪れ、仙人の下で働かせてほしいと願い出た。仙人はその誠意に感銘し、自らの学問をことごとく伝えた。ある日、仙人は吾道栄に告げた。「我はもともと恒岳の仙人であったが、若き日に罪を犯して天官により人間界へと左遷された。今やその流刑の期は満ち、まもなく天に帰る。汝に命じて、我が身を汾水まで送り届けてくれないか。」汾水に到着したとき、ちょうど川の水が大増水していた。仙人は一通の符を水中に投じると、たちまち激流は静まり、やがては水位が天に近いほどまで猛然と上昇した。ところが仙人は悠然と砂礫の上を歩み渡っていった。この光景をまざまざと目にしたのは吾道栄ただ一人で、ほかの人々は仙人が水面を浮かんで渡っていくのを見ただけだった。誰もが驚嘆し、この無名の仙人の術の現れは、恒山の仙跡に残る神秘的な逸話となった。

古来より、神仙の伝説は華夏文化の重要な構成要素であり、恒山の仙跡は古今にわたって脈々と受け継がれてきた。それは、顓頊が山を治めたという上古の伝説から、 チャンヨン 隠世における修行から、三茅真君の得道・飛昇、李皎の尸解による仙人への転生、さらには無名の仙人が現れて人々を救済するに至るまで、それぞれの逸話はすべて、古人が長生の道に憧れ、清虚の境地を追求してきた思いを宿している。こうした典籍に記された仙人の物語は、恒山に神秘的な仙気を添えるだけでなく、この北岳の名山が悠久の歳月の流れの中でも、常に天地と通じ、仙魂と寄り添う独特の気質を保ち続け、中華の大地に不朽の仙跡として刻まれた痕跡となっている。(李向奎)

 

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