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清朝李燧|『晋遊日記』の大同渾源行(1794年)


紙面の都合上、本誌では大同、渾源に関する章のみを整理して掲載します。道光癸已刻本の書には、劉廷楠による『晋遊日記』序と李鈞による『西征録』序が収録されています。当時の原貌を伝えるため、この二つの序文をそのまま掲載し、研究に役立てていただきたいと思います。

編者注

乾隆五十八年(1793年)、当時太僕寺少卿であった戈源(1738~1800年、字は仙舟、直隷河間府城の人、乾隆甲戌科進士)が山西学政を監督することになり、郷里から親交のある名士である李燧(1753~1825年、号は青墅)、劉廷楠(1753~1820年、号は雲岡、乾隆丁未科進士、広東の多くの県令を歴任)を幕僚として招いた。李氏と劉氏は3年にわたる幕府での勤務を始めた。

  翌年、李氏と劉氏は再び山西へ赴いた。2月1日、自宅を出発し、2月19日には省都太原に到着。戈学政が代州で学政視察を行っていることを知ると、2日間休息し、22日に太原の官署を出発、25日には代州に到着した。3月3日、試験が終了し出発、6日には岢嵐州に到着。16日、試験が終了し出発、五寨県、神池県を経て、18日には寧武郡城に到着。28日、試験が終了し出発、馬邑県、岱岳鎮、懐仁県を経て、4月2日には大同に到着した。5月12日、李燧は妻の病状が悪化しているという書簡を受け取ると、大同を出発し、日夜兼程で帰郷した。特筆すべきは、戈学政の今回の学政視察で、渾源のある優秀な学生が頭角を現したことである。治河の名臣栗毓美(1778~1840年、河東河道総督まで昇進)である。『栗恭勤公年譜』には「乾隆五十九年甲寅、公十七歳、州庠に入る、学使戈仙舟太僕(源)国士と目す」と記されている。これは栗毓美が清の要職にある官吏から初めて賞賛された出来事である。

  李燧は山西で3年間(1793~1795年)を過ごし、48の府州県城を訪れた。旅の途中で感じたことなどを随筆や詩として書き記し、それらをまとめた『雪爪留痕』を著した。後に『晋遊日記』と改題されたこの書は、山西地方史の研究にとって重要な資料となっている。道光十三年(1833年)、李燧の死後8年目、その孫の李鈞(1792~1859年、嘉慶丁丑科進士、河東河道総督まで昇進、当時河南省河南府知府)が李燧の著した『西征録』一冊と『晋遊日記』三巻を合冊し、河南府署で版木を刻んで出版した。

  紙面の都合上、本誌では大同、渾源に関する章のみを編集して掲載する。道光癸已に刻まれた書籍には、劉廷楠による『晋遊日記』序文と李鈞による『西征録』序文が収録されているが、当時の原形を伝えるために、この二つの序文はそのまま保存する。

 

 

▲『晋遊日記』 道光癸已刊

 

 

『晋遊日記』における大同・渾源紀行
李燧 青墅|文

乾隆癸丑(1793年)

 

  三月、江蘇銅山令の高陽劉白谷先生(祖志)から、県試の童子の答案を代わりに閲覧してほしいと依頼され、四月にはそれが終わった。ちょうど我々の郷里の戈太僕仙舟先生(源)が山右の学政視察を行い、使者を派遣して私を幕僚として招いたので、十五日に晋へ出発するための車を買い求めた。

(略)……

 


▲『晋遊日記』巻一 見返し

 

 

乾隆甲寅(1794年)

 

▲『晋遊日記』巻二 見返し

 

2月10日

劉雲岡と共に、自宅を出発する。曲閭村に至る、小雨、更に50里行って宗左に宿泊する。

11日~18日

(略)……

19日~21日

50里進んで鳴謙驛に至る。更に35里進んで太原に到着、その時学使は既に代州で学政視察を行っていた。2日間休息し、22日に代州へ向けて出発する。

22日~24日

(略)……

25日

40里進んで崞県に至る。更に60里進んで代州に到着する。

3月3日~5日

(略)……

6日

40里進んで三井に至る。更に40里進んで岢嵐州に到着する。

……

16日

試験が終了し、寧武へ向けて出発する。40里進んで三井に至る。更に40里進んで五寨県に宿泊する。

……

17日

40里進んで義井に至る。更に40里進んで神池県に宿泊する。

……

18日

25里進んで楊方口に至る、そこは寧武関である。辺境の城壁が連なり、戍楼や砲台が築かれており、古代の要害であった。更に25里進んで寧武郡城に至る。

……

 

▲『晋遊日記』大同紀行 その一

 

28日

試験が終了し、大同へ向けて出発する。55里進んで梨園頭に至る。更に30里進んで朔州に宿泊する。

29日

40里進んで馬邑県に至る。更に60里進んで岱岳に宿泊する。

4月1日

40里進んで塩豊営に至る。更に60里進んで懐仁県に宿泊する。

 

▲『晋遊日記』大同紀行 その二

 

2日

30里進んで秀女邨に至る。その場所は確認できない、おそらく小説家の武宗時代の事柄によるものだろう。更に50里進んで大同郡城に到着する。

 

大同への道中

野曠く暮煙瞑る、車を促して晩の征く、

驛亭の官柳は禿げ、古戍は砂平らに積もる。

地は孤峰の勢を制し、村は秀女の名を残す。

悲風笳は咽び泣き、これが辺境に近いことを知る。

 

  大同は周の職方、并州に属し、秦は雲中郡を置き、漢は雲中を定襄郡に分け、歴代の沿革は異なり、遼の始め西京を大同府とした。その地は右輔に近く、柱礎は天西にあり、長城を襟帯とし、孤塞を扼し、辺徼の門戸、幽薊の藩垣である。地勢は高寒で、四月でもまだ厚い裘を着、山陰は永雪で、盛夏でも消えない。

  大同は辺境の地ではあるが、風俗は浮華で、婦女子は綺羅を曳き、装飾で互いに競い合う。明の威武将軍が幾度もその地を訪れたのも、理由がある。

  北岳恒山は、渾源州の南20里にあり、高さ10里、周囲130里。北は玉華峰に連なり、東は柏山に連なり、南は槍鋒嶺に連なる。山脈は陰山から南へ朔平大同府境に入り、朔州を経て西へ折れ東へ走り、勾注、覆宿、夏屋、茹越、書厓などの山々となり、州の南に突起して恒山となる。恒山には草があり、「神護」と名付けられ、門の上に置くと、夜に人を叱ることができる。また「率然」という蛇があり、一匹の蛇に二つの頭があり、一方の頭を打つと、もう一方の頭も反応し、真ん中を打つと、両方の頭が同時に反応する。

  渾源八水は、磁窯、遠望、乱嶺、崞川、(乳泉)、神溪、李峪、渾源であり、八つの川が合流して渾流となるため、渾河と名付けられた。龍山は渾源州の南40里にあり、『漢書』の注によると龍山であり、四つの穴があり、四季を通して風が吹く。

 

▲『晋游日記』大同行 之三

 

  飲馬長城窟は、白道泉であり、『綱目集覧』に「白道は、古雲中郡にある」と記されている。『省志』には「大同の北に白道泉がある」と記されている。また『天鎮県志』には「西洋河は、辺境の飲馬池から源を発し、東西二湾がある」と記されている。現在その地には「小飲馬溝」という地名があり、飲馬長城窟であろうと疑われる。

  白登山は、陽高県の東南20里にあり、漢の高祖が包囲された場所である。単于台は豊鎮庁の北西、察哈爾正紅旗の境にあり、俗に「議事台」と呼ばれる。漢の元封の初め、18万の兵を率いてここに登った。

  昭君墓は、陽和にある。曹秋岳が陽和に兵を備え、その墓を訪れたことがある。墓には草木がなく、遠くから見ると、ぼんやりと濃い灰色に見える。古くから「青冢」と呼ばれており、まさにその通りである。墓の前にある石の机にはモンゴル文字が刻まれており、先生が詳しく考証し、何枚か写本を収めた。

  『推蓬寤語』に「雁が北へ帰るには、必ず芦を銜え、関を越えるとそれを納める」とある。『淮南子』では「矰繳を避けるため」としている。俗に「海を渡るときは芦を桴として、体力をつけるため」あるいは「芦を税として納めるため」と言われている。税として納めるという説は荒唐無稽である!海を渡るために桴とするという説は、なぜ秋にはないのか?矰繳を避けるという説は、来る時はなぜ避けないのか?私が考証したところによると、雁は風に乗って飛ぶ。春夏は南風であるため北へ飛び、秋冬は北風であるため南へ飛ぶ。秋冬は南にいて、食物をたくさん食べ体重が増えているので、北へ向かう時に芦を利用して風力を助けているだけである。塞北の風が高い時は問題ないので、雁門関に投げるのである。とりあえず書き留めておく。

  塞には雁に似て雁でない鳥がおり、雁と共に往き来する。『本草』では「慈老」と名付けられている。本朝宋梅の詩に「秋涼しげで寒蝉が鳴き止み(秋涼は蝉に似ているが、小さく、声は蝉に似ているが、短い)、慈老は候雁に続いて飛ぶ」とある。顧公小韓圪坨峪、即景の句に「黍の頭は雨気で低く、山は秋の気配が薄い」とあり、景色の描写は見事で、画家も及ばない。

  私の『雲中即事』の詩に「一匹の馬で狐塞に臨み、関山を自由に旅し、夕焼け雲は山の色と連なり、故郷への夢は川の流れを巡る。鼓角は三方の辺境で静まり、風煙は五月の秋である。蓬莱のように寄る辺なくさまよう身の上だが、なぜ并州に未練を残すのか。」とある。

  応州に劣という姓の人物がおり、名は自謙という。学使が言った。「劣という姓なのに、自謙とは何事だ!」この姓は珍しい。

五月十一日

夕刻、家からの便りを受け、妻が重病であることを知り、翌日北へ帰ることを決めた。

十二日

大同を出発。90里行って、王㶽屯に宿る。

 

▲『晋游日記』大同行 之四

 

十三日——二十二日

(略)……

二十三日

70里歩いて家に着いた。私は正午に帰り着いたが、妻は1時間前に亡くなっていた。千里の道を戻ってきて、別れも言えずに、何と悲しいことか?奉倩のように悲しむ必要はないが、荘子の斉物論を実践することはできない。鏡台はそのままに、簾は空しく垂れ下がっている。この追憶をどうすれば忘れられるだろうか?

 

詩に曰く:

散り行く雁はいかに行くだろうか、蓬莱山を二度越えたことを振り返る。

鏡いっぱいの霜のような白髪、悲しい鬢は変わり、隔年の錦の文字には涙の跡が多い。

東風の夢は蝶のように芳草に迷い、夜の月は啼く烏のように古い枝を恋しがる。

花の中でゆっくりと歌っていたことをまだ覚えている、なんと春の景色は変わりやすいものか。

 

六月二十六日——以後

(略)……

 

 

 

▲戈仙舟学政と李青墅の唱和の詩作

 

題詞

鴻の飛ぶ跡を辿って爪の痕を追い求めよ、時節が変われば隔世の論とせよ、

三年の官途は浮萍のように漂い、一巻の清詞は断ち切られた夢を留める。

傍観者は遊戯の筆を憐れみ、当人は別れの魂を悲しむ、

酒が尽き灯が消えれば吟味する、一掬の心情はまた故郷へ。

戈源 仙舟

 

 

過ぎ去った雲煙は痕跡を残さず、心の思いは誰と語ろうか、

山川は全て奚囊に収め、足跡は爪痕を残して置く。

絶好の景色はまるで夢のようで、昔の遊歴を振り返ればなおさら魂を消し去る、

いつになったら風塵の旅を終え、残りの編を故郷で老いることができるだろうか。

「雪爪留痕」巻末自記

戈仙舟先生の原韻を用いる

李燧 青墅

 

晋遊日記 序

  李君青墅は、予が束髪の時より研友であった。襟懐瀟洒にして、早歳より文名を負い、賦筆騷腸、尤も時流に推重された。足跡の及ぶ所には、必ず著述があり、往往にして碧城錦瑟の間に託した。人はこれを遊戯と見るか、香草美人には、固より別な悲しみがあることを知らぬ。癸丑(1793年)の歳、吾郷の戈太僕仙舟先生は山右を視学され、青墅と予は蓮幕を共に遊覧し、三晋を遍歴した。或いは古今を憑弔し、或いは形勝を延攬し、或いは馬足車塵の下に得、或いは酒闌灯灺の時に遇う。靡も毫を抽きて翰を染め、之を貯えずるものなし。奚囊久しく、乃ち裒然として帙を成し、『雪爪留痕』と題し、予に示した。嗟乎、歳月は流れ、浮生は寄るが如し。予と青墅の交際は三十年に及び、その間、聚より散へ、散より復聚する者、指折り数え難し。是れ已往の痕跡は過ぎて留まらず。今や、天涯の知己、风雨の聯牀、是れ暫時の痕跡なり、留まりて未だ去らず。青墅は仕官版に登り、予もまた風塵鞅掌の人となるべく、梗断蓬飄、将来の痕跡は、各々何処に留まるか卜し難し。即ち雪泥の爪跡も、飛鴻の東西を共逐するが如く、安んぞ必ず更なる紀載があり、俾く今日の痕跡を尚ほ須臾留めんとするぞや。是編は癸丑に始まり、乙卯に成り、凡そ三年。その間の閑情瑣事、一一皆予の目撃する所なり。篝灯披対、断続する夢の如く、前生の話を語るが如く、益々今昔の感を禁じ得ず。数言を識し、巻頭に弁じ、予の三年の痕跡も、亦た附して留めんと欲す。

乾隆乙卯清和上浣

雲岡弟劉廷楠 解梁試院の半舫にて題す

 

▲『晋遊日記』 序

 

西征録 序

『西征録』一冊

  先大父は檄を受けて秦へ赴き、途中の行程を記した筆録である。先ず三晋を遊歴し、日記三巻があったが、同郷の諸先輩の序跋題詠を得て、広く流布された。茲に載せる疆域の沿革、山川の険易、風俗の淳漓、及び一碑、一坊、一聯、一什は、莫れなく行勝に採り入れられ、先の記より尤も詳備である。癸巳の秋に刊行された。先大父の詩稿が竣成したので、この冊子と『晋遊日記』を共に梓に付した。人の手澤でなく、湮没せんとする所を遺憾とするが、一度展覧すれば、まるで謦欬を親承し、日毎に山程水驛の間に追随するが如し。孺慕の情も、亦た此によって倍永するのみ

孫鈞 謹識

 

▲『西征録』序

 

『晋遊日記』に節載す

道光癸已刊

河南府署蔵版

 

 

校対:雪芳

編集:学琳

 

著者紹介

  李燧(1753-1825)、字は東生、号は青墅、清朝直隷河間(河北省)の人、乾隆壬戍科進士李棠の子。幼くして庭訓を受け、文名を負い、尤も時流に推許された。中年以後、各地の官吏の幕僚を務め、文武全才、胆略あり、数省の上司に重用され、後に幕府より官吏に転じ、浙江龍山鶴砂塩課大使にまで至った。

  李燧は声律に巧み、「無題」、「詠物」等の詩は、遠くまで思いを寄せ、風人の趣を損なわない。その取法は晩唐にあるが、青蒼雄肆にして、時に開元、大暦の奥を突く。著述に『晋遊日記』(原題『雪爪留痕』)、『西征録』、『青墅詩稿』十巻などがある。

キーワード:

国の自然