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民国麻席珍 | 癸酉(1933)登恒岳記(附詩文)


現在の古城渾源で、よく保存されている古民家といえば必ず「麻家大院」が挙げられ、元当主の麻席珍も注目を集めるようになり、住まいによって有名になったと言えるようです。

編者按

  現在の古城渾源で、よく保存されている古民家といえば必ず「麻家大院」が挙げられ、元当主の麻席珍も注目を集めるようになり、住まいによって有名になったかのようです。実際、民国時代の麻席珍は渾源の著名な縉紳であり、前清の挙人出身で、複雑な官歴を持ち、山西省の多くの県令を歴任し、退官後は故郷に戻り、公益事業に熱心に取り組み、文章を著し、郷里で大きな影響力を持っていました。

  1933年秋、麻席珍は渾源に駐屯していた方克猷旅長の誘いを受け、恒山に遊覧に出かけ、この『登恒岳記』を残しました。外地の文人が恒山を遊覧する際には、恒山の豊かな歴史文化に加え、道中の衣食住や見聞きしたことなど、初めて訪れた者ならではの新鮮な感覚が生まれます。麻席珍は地元の文人として、地元の生活習慣には見慣れているため、当然のことながら、あまりにも馴染み深いため書く気にはならず、彼が重点的に記述しているのは、詳細な登山ルートと過去の出来事や逸話です。これが、外地の文人の遊記との最大の違いです。今回の登山では、方克猷旅長は当時最新式の軍用望遠鏡を持参し、麻席珍と同行者たちは山頂でそれを受け渡し合い、遠くに見える景色や感想を語り合うなど、楽しい出来事もありました。

  麻席珍のこの文章と付随する詩は、もともと民国時代の刻本であり、渾源の民間で一定数伝わっていました。数年前、編者は楊志文先生から複写本をいただき、大切に保管してきました。

  近代の人物が渾源や恒山を遊覧した記録は、本誌が常に注目している点であり、今回この文章を掲載し、読者の皆様にお届けします。併せて、麻氏による『補述各洞異跡』『恒岳顯霊』と『恒岳訪古』(1932年、七言古詩)も掲載していますので、ご注目ください。

 

 

▲『恒岳遊記附詩』麻国華

 

 

癸酉登恒岳記
麻席珍|文

民国廿二年

 

  癸酉の重陽の三日前、旅長の方壮侯先生から恒山に登ろうと誘われました。十人で同行し、南郊から出発しました。

 

 

▲『癸酉登恒岳記』01

 

  七里進むと金龍口に着き、東西に険しい崖がそびえ立ち、峡谷を流れる急流は、天然の難所です。石虎が門を守り、魁閣が並立し、まさに壮観です。木龍湾を過ぎると、水車が轟々と回転し、遠くから見ると滝が地中から湧き出ているように見え、水簾が垂れ下がっています。さらに三里進むと、絶壁がそびえ立ち、西を見ると龍楼鳳閣が山腹に張り付いているように見え、まるで蜃気楼のようです。空に届かんばかりの高さで、底知れぬ淵を見下ろす、それが懸空寺です。寺内には如来弥勒の像や、牛に乗り剣を背負った仙人の像があり、寺の北には太白祠があり、太白が自ら刻んだという「壮観」の大字は非常に力強いものです。両崖がせまり、晴れた日には霞が漂い、煙霧が舞い上がり、志に「瓷峡煙雨」とあるのは、まさにその通りです。

  さらに進むと、両岸には多くの四角い穴が掘られており、かつては石橋があったが、今は崩れています。志に「雲閣虹橋」とあるのはここを指しており、北魏の道武帝天興元年、恒嶺五百里を掘削するために兵士を動員したのが始まりです。宋の楊業が駐屯した跡も残っており、今は荒廃していますが、一人が守れば通行を阻める険しさは、昔と変わりません。

  さらに進むと、河東には李牧祠、河西の崖の上には関帝廟があります。山の曲がりくねった崖の上には羅漢洞があり、洞窟の広さは数丈、深さは測り知れません。異様な跡があるため、今は塞がれていますが、詳細は後述します。中には南海聖尊十八羅漢が祀られており、非常に幽玄で美しい場所で、その下には達磨洞があります。

  さらに進むと岳麓に着き、俗に「山門」と呼ばれています。牌坊がそびえ立ち、立派な碑が立ち、鉄の猊と石の獅子が両側にいます。門内は「三元宮」です。ここから登り始め、下駄をはき杖をつき、次々と登っていくと、雲の上を歩く道になります。「停旨嶺」は、歴代の皇帝が祭祀の際に勅命を受けた場所です。村の前にある真武廟には、成化年間の記録が残る祈雨碑が三つあります。廟の外には、古松がねじれ、まるで拱門のように、あるいは頭を垂れたように、四季を通して緑を保っています。また、龍王廟や望仙楼もあります。山中には豊富な石炭が埋蔵されていますが、水没してしまいました。

  さらに数百歩登ると、道の左側に天に届かんばかりの峰がそびえ立ち、険しい岩が突き出ています。「恒宗」の大字が石に刻まれており、明の成化年間の張昇の題字で、俗に「大字湾」または「大字嶺」と呼ばれています。ここに立ち止まり北を見ると、宗峰が空に突き出ており、地から天に届かんばかりの勢いがあり、龍の楼閣と宝蓋のような形をしています。大きな帳簿のように突き出ており、まるで左腕を伸ばしているようで、西にはなだらかな斜面が延び、東には奇峰が突出し、岩壁や要塞のように、曲がりくねって抱きかかえるように、鉗子のような形をしており、凹凸がはっきりと見えます。よく観察してみると分かります。

  十王殿周辺はおへそのようで、さらに上は腹や肺のようであり、朝殿の下は喉や心臓のようです。全体の中心であり、万物の霊魂が集まる場所であり、形家では「太極暈」、道家では「玄関竅」と言い、星々の精気を含み、坤坎の気を孕んでいる場所です。半ばのくぼんだ場所では、激しい風が骨を刺すように吹きつけ、耳をつんざくような音を立てています。「虎風口」と呼ばれ、大きな石が横にあり、木製の坊が道に横たわっています。さらに進むと、岩の下の道の脇に、手形と蹄の跡のような石の窪みがあり、俗に張果老がロバに乗って四大名山を巡った跡だと言われています。「果老嶺」と呼ばれています。

  さらに半里行くと、山勢は静まり、気は落ち着き神は凝り、地はやや広くなり、寺院が林立し、高低左右に星羅棋布している。その音を聞けば鐘磬木魚の音色が耳に心地よく、その形を見れば層楼や傑閣が目の前に森立している。風は清く気は爽やかで、心は晴れやかで気分が良い。神境仙郷、洞天福地でなければ、誰が信じるだろうか?神を凝らして下を見れば、騒がしい塵世は、瞬く間に雲泥の差がある。この寺の適度な場所には十王殿があり、元々は「白霊観」と呼ばれ、殿内には道士李清乾の遺像がある。李は陝西龍橋の人で、雍正十二年に山に来て修行し、紫微閣を建てようとしたが、基礎が完成し、山木を伐採して準備していたところ、人に誣告されて辱めを受け、去ろうとしたが、邑人の陳典らに引き留められ、皇経を三年間跪いて唱えることを誓い、功徳を積んで亡くなり、その遺像を祀った。顔色は常に新しく、塵垢が付かないため、人々は皆不思議に思い敬い、「鈍(言木言)道」と呼んだという。雲殿の後方の高崗には「三茅窟」があり、茅盈、茅固、茅衷が得道した場所である。院内には紫微閣があり、院の東には「接官亭」があり、元々は「白雲堂」と呼ばれ、堂の東には「玄武井」すなわち「履一泉」があり、雨乞いに非常に霊験のある場所である。しばしば火傘が空を焼くような時に、誠心誠意祈願すると、甘霖が続いて降り注ぐ。特に珍しいのは、廟会(みょうかい)の際、万人汲んでも尽きないが、もしも冒涜すると、井泉はすぐに涸れ、懺悔して祈願すると再び湧き出る。その井戸を見れば、三尺四方ほどの石窟に過ぎない。井戸の左には洪武十三年修廟紀事碑があり、雲中の龍虎将軍、都指揮使王約が雲中が長らく旱魃で不作だったため、祭祀して祈願したところ霊験があったため、建てられた碑文で、略して「舜帝が望秩以来、飛石が東に移り、曲陽に祠を建てた。元魏が雲中に都を築き、元岳宮観を創建した。唐の開元の中頃、王爵を賜り、玄宗が臨御し、廟号を龍泉観と賜った。宋の祥符の際に安天元聖帝の加封を受けた。遼金時代には、建造が日新月盛であったが、その後、年久で修理されず、宮殿は荒廃したので、工匠を集めて修理し、神恩に報いた。」とある。渾源州事鄭允先が撰したものである。

  ここから各寺院に行き、甲、乙、丙の三つのルートに分けて、以下に詳しく説明する。

 

  

▲『癸酉登恒岳記』02

 

 

甲 接官亭から東の坂道を上って大王廟に行き、さらに寝宮に行く。

 

  宮の左側には「還元洞」があり、深さは測り知れない。昔は石で塞いでいたが、明の万暦年間、巡按御史黄応坤が開け、名を「復還天巧洞」と改め、紀事碑があり、また碑文に「乾坤に造化を還すには、子午に浮沈を決める必要がある」とある。殿の右側の岩の下には「飛石窟」があり、俗に舜帝が北岳に望祭した際、窟の石が帝の前に飛来したという遺蹟だと言われるが、その形状は一致しないので、その説を残しておく。さらに右には後土夫人廟があり、廟の右側の石壁には明の王裕の詩三首が刻まれている。詩にはこうある。

大茂維尊奠朔方、巡方展祭謁玄皇。

行来佳气逢朝蔼、扳到绝巅俯夕阳。

翠雪亭中木意老、紫芝峪里水情香。

勝游至此襟期爽、領略烟霞尽日長。

 

丹崖削出秀芙蓉,岩壑蒼蒼翠𪩘重。

礼観観前飛石窟、登亭亭上立天峰。

松頭望影疑盤鶴、洞口聴泉怕擾龍。

霊穴白雲浮万斛、一時吞吐万山封。

 

恒峰峻極与天斉、北極天枢南極低。

盥洗銀河疑咫尺、手摩星斗薄雲梯。

丹岩日映紅霞燦、松翠天連碧落迷。

北岳雲中天下脊、依稀対面隔雲泥。

  寝宮の左には「梳妝楼」があり、棟宇は高くそびえ立ち、軒は牙のように鋭く、峻嶺は東から南に折れ曲がり、曲屏のような勢いである。石は険しく、岩壑は幽邃で、白雲霊穴は崖の右に懸かり、穴の傍らには「白雲霊穴」の大字が刻まれている。雨が降ろうとすると、煙霧が山谷を覆う。寝宮側の岩の上には大字が数多く刻まれており、およそ以下の通りである。

雲中勝跡 霊宮顕応 洞門春曉

古今勝概 不在人間 峻極于天

白雲霊穴 路接天衢 一徳峰

復還天巧 還元洞 拱極浮橋

千岩競秀 万壑争流 飛石遺迹

  また岳に登った際に、一首の無名の詩を以下に記す。

自筑長城徳便慚、華夷一統竟空談。

看來歴数天無二、問到賢良策始三。

岳為連胡恒備北、鳥猶思漢雁常南。

龍荒竣宇俱陳迹、匹馬秋風涙不堪。

麓泉

 

  大王廟から南に行き、閻道祠を通り過ぎ、さらに南の夕陽嶺、得一庵に行くと、魏の道士が羽化(うか)した場所である。道士の名は清泉といい、号は得一といい、そのためこの名がある。明の神宗の時代、この庵に住み、仙書に通じ、手書きで代諱を誦し、布衲袴の膝の部分は何度もすり切れており、根菜や麦、菽を異餐同飽し、庵に住んで数十年、遊止は三百歩を越えなかった。康熙の時代もまだ生きており、後に亡くなった。道は険しく行きにくいので、這って進む。さらに南に行くと「捨身崖」である。夕陽嶺は西向きの壁が立っており、孤峰のように切り立った崖で、日が海に沈むと、まだ煙霞があり、水绡のように絶壁の苔や石の皴に映り、絵画のように美しい。会仙府にあると誤って伝えられているが、そうではない。紫霞洞は寝宮の左にあり、夕陽嶺に隣接しており、紫霞元君祠からその名があるが、今は荒廃しており、門の外には滝が匹練のように流れ落ちている。

 

 

▲『癸酉登恒岳記』03

 

乙は、接官庁から北上西行し、いわゆる「純陽宮」に至る。呂祖の飛鸞顕化の地である。ここから二手に分かれる。

 

(一)北西に太乙廟、大悲閣、凌雲閣、九天宮に至る。

  方旅長が額に「碧霞宮」と題した。俗に娘娘廟と呼ばれる。宮殿内は整然としており、黄冠の観光客が多く滞在する。東を望めば、白雲、紫霞などの名勝が歓迎するかのように見える。道士の劉一雲は、陝西省綏徳州の人で、この地に居住し、剛直豪爽な人物であった。宮殿の荒廃を嘆き、燕晋を巡って資金を集め、千金を獲得して修復を行い、50年以上居住した。常に岳廟が新しくないことを憾んでいた。乾隆30年、知州の桂敬順は勅命を受けて岳廟の修繕を行い、劉はこれを喜び、8ヶ月後に工事が完了した。しかし、劉も亡くなった。桂は劉の岳廟への功績を称え、文章を著してこれを記した。西には翠雪亭の廃墟があり、その下には望仙亭がある。亭の右には恒水が流れ、初夏に南を望むと、美しい景色が広がる。

  九天宮の後ろには「四大夫松」があり、鸞鶴がしばしば集まる。南下すると瘡神廟、山神廟があり、さらに下ると仙人塚がある。民国3年7月3日、岳廟の修繕と仙府の上棟式が行われた。夜間、現場監督の安保元などは、仙人塚に3つの灯火が旋回し輝いているのを見、その後無数の灯火となり山谷を照らした。普段もこのような灯火が現れることがあり、「神灯」と呼ばれ、蛍や燐光とは明らかに異なる不思議な現象である。四川省の青城山や峨眉山でもこのような灯火がよく見られるとされ、記録にも多く残されており、山霊の異変ではないだろうか。

 

(二)九天宮から北西に山脊のくぼ地に行くと、「魁星閣」がある。

  街を見下ろすと、絵のように見える。北下すると恒背があり、街への行き来の近道で、10里の距離を節約できるが、険しく狭いため通行しにくい。

 

 

▲『癸酉登恒岳記』04

 

丙 純陽宮からやや北東に上ると、文昌廟、関帝廟、天官廟があり、さらに上ると老龍王廟、二郎廟がある。北東からは紫芝峪、石脂図坡、棧雲崗などの名勝を遠望できる。

  西に折れて北上すると崇霊門に至る。門の内、左に青龍殿、右に白虎殿があり、中央の階段を98段北上すると、数百年の檜が左右に立ち並び、四季を通して緑が枯れることがない。階段の上には南天門があり、門の内には朝殿がある。坐坎向離で、殿額には「貞元之殿」と題されている。旧称は「玄霊宮」である。左に更衣室、右に蔵経楼がある。明の神宗万暦24年、勅命により道蔵経が名山宮観に頒布され、御馬監の白忠が運搬し安置した。1479種、512函、16類からなる。以下のように分類される:

部首 神符 玉訣 霊図

譜録 戒律 威儀 方法

衆術 記伝 賛頌 表奏

本文 太玄 太平 太清

 

勅論:

  恒山北岳廟住持道士、朕は誠心をもって大蔵経を印造し、京師及び天下の宮観に頒布し供養する。経首の護勅は既にその由を諭した。爾住持及び道衆は、務めて清浄に供養し安置し、朝夕礼誦を行い、眇躬の康泰、宮壺の粛清を祈願し、己の過去の過ちを懺悔し、無疆の寿福、民安国泰、天下泰平を祈願し、四海八方共に清静に帰依し、善教をもって朕の恭しく無為の治道を実現する。今特地道経廠副掌壇御馬監少卿監白忠に命じて、前記の場所に供養のため送る。各々よくこれを体して知り、悉すべし。欽哉故諭。

  元の勅書1軸はまだ朝殿に現存する。蔵経は明末に48函が失われた。乾隆11年、九天宮の道士劉一雲は京師白雲観で資金を集め、写本を補った。民国以来、散逸が多く、白雲観で再び請来した。

  北岳安天元聖帝宝蔵諸廟、現在の恒印。また、長さ1丈ほどの古画4幅があり、青龍、白虎、朱雀、玄武の神像が描かれ、筆力躍動し、精気がみなぎっている。まさに仙人の筆跡である。

  この場所は、磨雲捧日の険しい岩を背に、万壑朝宗の重なる山々を迎え、左に興雲致雨の龍砂を抱き、右に長嘯生風の石虎を伏せている。時として松風の音が普陀の潮騒のようだ。時として羽鶴が飛び交い、王母が護衛する使者のようだ。万壑千岩は皆頭を垂れ、三辺九塞は皆霊に通じる。蒼松古柏は龍蛇となり、瑶草琪花は瑞を献じる。これは拱極の辰、百霊が命を捧げるという所以であろうか。殿は数仞の高さがあり、崇高で壮麗であり、金碧輝煌で、刻節丹楹、巧妙な意匠が施されている。楹聯の文字は蘇王、顔柳の書風を彷彿とさせ、見飽きることがない。碑碣の文字は隷書、篆書、草書、真書があり、目移りするばかりである。梵音は吚唔と聞こえ、真経を誦じている。仙楽は繚繞とし、簫笛を吹いている。この場所に臨み、心は対越する。必ず敬虔でなければ、昭顕赫である。真か幻か、これは誠に不思議なことであり、計り知れない。

  五岳真形図によると、北岳の神は金蝉氏三子で、晨顎といい、洞淵無極真君である。宋で安天元聖帝と封じられ、明で北岳恒山の神と改められた。世界、土地、山川、牛羊畜産などを司る。昌容、張果、茅盈、李交(交は牛へん)、管革などの神仙がしばしば集まり、歴代の王朝を助けて逆賊を討伐し、その志は絶えることがなく記録されている。祈福や災いの除けを祈願すると、必ず応える。この地の近くでは災害がなく、五穀豊穣となる。このように神霊は顕現する。そのため、遠近からこの地へ朝拝する者は、道が塞がるほどである。

 

 

▲『癸酉登恒岳記』05

 

  拝礼を終え、殿の西の山門を出ると、道人が言った。「ここは金鶏が夜明けを告げる場所です。」階段の石を叩くと、「咕咕」と音がし、山々にも響き渡った。私は言った。「これは反響です。」西へ五土廟まで行き、御碑亭を見学した。乾隆帝の御筆による「化垂悠久」の四文字が、八角亭に守られていた。さらに西へ玉皇閣、会仙府へと進むと、そこは軒が広く静かで、春秋の景色は特に素晴らしかった。そこに身を置くと、まるで武陵源に入り、劉晨、阮肇と仲間になったかのようだった。府の北の岩の上には集仙洞の旧址があり、現在は「大仙洞」と呼ばれている。そこは東西の岩の間に数百メートル続き、数多くの題字が刻まれている。苔を払い落として探すと、判読できるものを以下に記す:

  壁立万仞 名斉四岳 雲屏聳翠

  景対南天 雲中勝覽 天地大観

  蒼翠常新 雲山聳翠 瞻天仰聖

  万木陰森 南瞻万国 一統山河

  物外仙都 天下名山 統地通天

  昆侖首派 福地洞天

  など、数え切れないほどあった。さらに西へ行き北上すると琴棋台があり、地面は弓一本分もないほど狭く、石は砥石のように平らで、二人で奕を遊び、一人がそれを観戦できる広さだった。中央には升目状の刻みがあり、対局ができるようになっていた。月明かりの澄んだ夜には、樵夫や牧童が「丁丁」という音を聞いたという。王子爛柯や鐘子期がここにいた情景を想像すると、その神妙な景色は筆舌に尽くしがたい。ここの岩の上には次のような文字が刻まれていた:

  斗北一柱 悟道遺迹 仙山顕異

  石壁凌雲 一局爛柯 琴棋台

  などの文字。さらに西へ進むと通玄谷があり、張果老が丹薬を煉って成道した場所である。果老は唐の開元年間、「通玄先生」の称号を賜ったため、谷はこの名で呼ばれている。かつては石門があり、煙霞が古び、静かで陰森とした雰囲気で、薬炉や丹炉の跡が残っていた。谷の入り口の上には「果老仙踪」などの文字が刻まれている。

  南へ五百歩下ると九天宮に直達し、谷から会仙府の北へ折れ、蔓や葛を頼りに手足を使い、曲がりくねった道を進んで恒頂に至る。頂上は地上三千数百丈の高さで、雲を突き抜けている。まさに星に触れ、斗を回すことができ、造化の力を奪うことができるかのようだ。石は多くの異様な形をしており、色は独特の黄色をしている。背の低い松が不規則に並び、広い頂上を覆い、傘や巻貝のようだった。古木の根と岩が絡み合い、解けることなく、折れることも崩れることもなく、障害物もなく、風にあおられて音を立て、波のような音が耳に響く。これが「岳頂松風」である。空に広がり、元気を満たし、天気が良く、澄み渡った空の下、一望無辺の景色が広がり、遠く五台、三関、九寨などの名所がかすかに見える。金城の塔、桑干の河は、針や糸のように見え、万里の長城は暗く寂しく、悲しげに見えた。山海関は厳粛で厳格で、悲壮感を感じさせた。紫荊関、飛狐関、倒馬関、居庸関は、壁垒や警備のようだった。見下ろすうちに、感慨がこみ上げてきた。ここまで来て初めて、見下ろす山々が小さく見え、天地は浮き泡のように感じ、浩然たる気は宇宙を満たし、元神は永遠に朽ちないことを悟った。皆、喜び笑った。

 

 

▲『癸酉登恒岳記』06

 

  望遠鏡で四方を見渡すと、ある者は「雉城の亀が殻から出て動いているようだ」と言い、ある者は「鳳山の影が羽を広げて飛び立とうとしているようだ」と言い、またある者は「北岳の峰で重陽の宴を開き、天風が黄金色の酒を揺らしている」と歌った。私も言った。「高い山に登らなければ、平地の広さがわからない。今後は、人生において、より高くを目指し、より広く見渡し、より遠くを目指し、より高く想像するようになるだろう。そのようなことは、この登山の際に悟ったのだ。」皆、うなずいた。

  皆で東の岩のくぼ地まで回ると、群れをなす玉羊が、寝たり起きたりしているのが見えた。まるで平定されたばかりのようだった。石脂の斜面には、点々と星のように散らばった模様があり、太古の蝌蚪の跡のようだった。棧道のある雲崗では、岩肌が森のように立ち並び、土から生えてきた春の筍のようであり、また刀山剣樹のようでもあり、驚くべき光景だった。そのそばには霧が立ち込め、藜や黍を炊いているようであり、岩の割れ目から出て、岩肌に触れ、雨が降りそうだった。

  ある者は言った。「ここは紫芝峪だ」「ここは白雲穴だ」と。崖は険しく道は危険で、登るのは容易ではなかった。「体でなく心で、形ではなく心で、目で足を、指で答えを代用しよう」と約束した。ある者は言った。「昔、燕の王は大きな木の根元で圭と璧を七十余個ずつ手に入れたが、その木はどこにあるのだろうか?」またある者は言った。「明の嘉靖三十五年、十二本の玄芝を献上したが、今も残っているのだろうか?」またある者は言った。「率然の蛇は頭と尾がつながっており、門を守る草は指の弁士よりも優れている。これらは全てこの山の特産物だ。我々は勇気を出して、一つ一つその実態を探ってみようではないか?」

  私は言った。「ああ、もう日が暮れようとしている。足も疲れたし、ご飯も炊けた。探検と名所巡りは、また別の日にしよう。そもそも世の中の楽しみは極端にすべきではない。幸福は余分に残しておくべきもので、全てを尽くすことはできないのだ。」皆、そうだと同意し、曲がりくねった道をたどりながら帰路についた。

  更衣室に着くと、灯りがともっていた。

 

 

▲『癸酉登恒岳記』07

 

 

  食事の後、ぐっすりと眠りについた。夢の中で、黒い龍が朝殿の裏の岩からゆっくりと降りてきた。その様子は、「君たちは山に登ってきたが、私と少し交流してみないか、私の姿を見てみないか?」と言っているようだった。すると、多くの人々が頭を下げて祈っているのが見えた。「今、血なまぐさい戦乱が続き、世の中は汚れている。神よ、雲から雨を降らせて、この世の汚れを洗い流し、人々の願いを叶えてください。」と。私は振り返らず、すぐに龍は飛び去った。

  翌朝、龍を追いかけると、崖の中腹に木製の龍が風になびき、牙をむき出し、爪を立てて、まるで頷いているかのようだった。私は言った。「ああ、わかったぞ。昨夜の夢で私と交流したものは、お前だったのだ!」皆、驚いて悟り、一緒に笑った。天下泰平、これはその兆候だ。

  旅長は言った。「これを記録しないわけにはいかない。」そして、筆を執り、その概要をこのように記した。

 

遊山主客方克猷旅長経歴

  方克猷(1893—1981年)、字荘侯、一作壮侯、安徽潜山の人、国民革命軍陸軍中将。保定陸軍軍官学校卒業。西北辺防軍連長、営長、参謀などを歴任。1926年、国民軍第3軍第1師司令部参謀長兼教導団団長、第3軍第2旅司令部参謀長、第21師第23旅旅長などを歴任。1928年10月以降、100旅旅長、第16師師長、第206旅旅長などを歴任。抗日戦争勃発後、所属旅を率いて忻口会戦など激戦に参加。第19軍独立第2旅旅長、第19軍副軍長、第5戦区司令長官部軍務処処長、軍委会訓練部第5督訓処処長、漢中行営軍務処処長などを歴任。抗日戦争勝利後、北平行轅第1処処長、国防部中将部員。1949年春、台湾へ行き、台湾総統府中将参軍。1952年10月退役。1981年8月26日、台北で死去。

  1933年頃、晋綏軍方克猷部は渾源に駐屯し、旅長の方克猷は暇な時に、麻国華、趙国良など多くの渾源の上層人士と親しく付き合った。方克猷は文化教養の高い著名な将官で、麻国華と恒山に遊んだことや、趙国良に清宮の旧事などを教えられたり、書道を共に研究したことがある。渾源を離れてからも、趙国良に書道の腕前を称賛する手紙を書いている。

  方克猷は1919年春、保定軍官学校砲兵科第6期第2連を卒業。1936年2月3日、陸軍少将に任命。1940年4月、陸軍大学特別班第4期を卒業。陸軍中将の任命日は不明。

 

 
 
 

《保定陸軍軍官学校同学録》 方克猷

 

砲科六期二連

姓名:方克猷

字:荘侯

年齢:26

籍貫:安徽太湖

住所:潜山黄泥港方同昌方

 

補述各洞異迹
麻席珍|文

 
  • 羅漢洞 瓷峡峪懸空寺の南、河西の山腹の崖の上に位置する。洞口は現在塞がれており、洞口の外に大きな穴が残っている。広さは数丈、深さは半分。元の形のまま仏殿として整備され、殿内の北東には以前、測り知れないほど深い穴があった。

    伝承によれば、光緒年間の或る年、住持僧が夜中に院内で「シューシュー」と吐くような音が聞こえ、窓から見ると、牛の子のような形をした深紅色で、毛並みが光り輝くものが洞前の杏の木で体をこすりつけ、その後洞内に戻っていくのが見えたという。見ると、木の皮が剥がれて枯れていた。そこで洞口を塞いだ。

    また、父祖伝承によると、年月は不明だが、唐家庄の唐某という人がいた。その家の従業員は非常に勤勉で、毎晩必ず家に帰った。しかし、その従業員の住所を尋ねると、毎回話が違った。唐某は不審に思い、ある晩息子にその従業員の後をつけるように命じた。息子が羅漢洞に入り、暗闇の中を進むと、従業員の呼びかけにも応答がなく、長い間歩いた後、遠くから光が見えてきた。従業員は突然倒れ、竜に変身した。すると、宮殿が現れ、別世界が広がり、清らかで俗世間とは隔絶した場所だった。息子は驚き叫んだが、すぐに誰かに導かれて外に出された。息子が帰ると、家族はすでに数日間探し回っていた。この出来事を聞くと、二度と行かないようにと息子を禁じ、その後、従業員は現れなくなった。

  • 還元洞 岳廟と寝宮の左側に位置する。明代以前は洞口が塞がれていたが、巡按御史黄応坤が山を祭る際に開けた。洞口には紀事碑がある。伝承によると、洞内は数百里先まで続いているといい、禹穴に通じており、ある洞天と地下で行き来できるという。以前、洞内を探検しようと仲間と入った人がおり、火具や食料を持って数日間歩いたが、川によって引き返した。しかし、実際はどうだったのか、近年は誰も探ろうとしない。しかし、多くの名山には洞天福地があり、洞庭や林屋など、数えきれないほどある。そして、私が沁水を担当している上峪村にも深淵な古洞があり、中には石質の花の絵のような模様があり、言葉では言い表せないほど美しい。また、壺関県にも非常に大きく深い洞があることが『東山堂日記』に記されている。

  • 総真洞 志書に載っている大茂山総真洞は、神峰の南西約20里、山頂の険しい断崖の下にあり、「総真」と呼ばれる洞窟がある。伝承によれば、「金龍洞」と呼ばれ、非常に深く測り知れないほどであるという。松明を持って数十里歩いた者もいるが、川が流れ湍急で渡ることができず、『爾雅』の言う「恒山に太元宝泉がある」というものであるか疑わしい。旱魃の時祈るとすぐに効果があり、もし冒涜すると洞から水が湧き出し、風雷が轟くが、祈ると治まる。宋代の薛安撫が3度参拝し祈願し、利沢候に封じられ、明恵公に追封され、本朝まで変わらない。今上も金龍に符簡を負わせて洞に投げ入れ、樵採を禁じ、洞口を封鎖し、出入りを絶った。杜師が殿宇を修復し、岳安常が記を作った。この記述は志書にあるが、何の時代のものか不明であり、その場所は現在の玉泉龍山の間にあると思われる。暇な時に訪れてみたい。

 

 

▲《補述各洞異迹》 篇首図参照

 

 

恒岳の霊験
麻席珍|文

 

  平時は除災祈雨を行い、すぐに効果があった。大劫が迫っている時も、凶事が吉事へと転じることも多い。過去のことは詳しく述べないが、民国15年(1926年)丙寅4月19日、国民軍が雁北13県を激しく包囲し、渾源も包囲下に陥り、砲火が絶え間なく続き、14日から5月2日夜間にかけて、劉創齋が愁城で一人寝ていると、一子真人が現れ、劉が救済を求めると、真人から隠語4句が書かれた書簡が渡された。「衆仙憐憫下天台、除将大劫化小災。莫道閉城是十九、九九二数早安排。」と書き、書を書き終えると、玄妙なことを語り合い、「水公刀兵、上帝示懲、擇種留良、有縁得救、天理良心、因果報應、大善大德、可免劫難」や「衆仙分別善悪、檢查功過、與弾丸安眠」などの言葉もあった。撤囲の7月8日まではまだ遠く、誰も意味が分からなかった。この知らせは全県に広まり、事前に誰もその意味を理解していなかった。7月8日、兵が撤退し、包囲が解かれ城門が開くと、人々は99の数(81日)が包囲期間とピッタリ合っていることに驚き、神様の霊験を改めて実感したのである。大劫が小劫に変わり、神の霊験は真実であった。霊験はこのようなものである。

  志載にもあるように、恒岳の使者が楊洪裕に石雁を二枚授けたが、これは太祖の淑妃や太尉の廷璋の異変と同時に起きたことである。契丹の主ク烈と可突干が謀反を起こしたが、岳の神が霊験を顕して順帝を助け、逆賊はすぐに捕らえられた。また明の成化年間、嘉靖年間にも、西方の寇賊や鉱賊の乱があったが、いずれも岳廟に祈願したところ功を奏した。その他霊異は数え切れないほどである。

 

 

▲《恒岳顯靈》 篇首は前図を参照

 

 

恒岳訪古
麻席珍|文

 

壬申(1932)孟夏

 

黄帝が州を分け五岳を定め、邦畿を鎮め給うはいかばかり壮麗なることか

嵩山、衡山、泰山、華山はそれぞれに封ぜられ、ただ大茂山(恒山、別名大茂山)のみが尊ばれた

気は六一を涵み雷風を兼ね、下は坎精を孕み上は畢を昂げる

神京を守り北門を閉ざし、災いを御し患いを除き民を安らかにする

時には祈願すれば甘霖を降らし、時には霊験を顕して馬の病を癒す

昔、建辰の枢を正し、虞帝は冬巡りしてここに秩を望んだ

飛石の荒唐な言説はどこから来たのか、曲陽に祀りを移して宝を失った

後に清臣の粘本盛が祀りの章を厘定し、命を請うた

方位を定め渾源を戻し、明禋を改めて正した

毎年孟夏の初八から、千里の距離から山に朝拝し盛大な祭祀を行う

私は考古学を学び深く仰ぎ、城南に出て天にそびえ立つ山を眺める

金龍口に入り急坂を駆け上がり、翠屏が壁のように立ち並び剣門を思わせる

魁星と北斗が東西に文光を射し、石虎が門を守り厳然と見張っている

雲棧は崩れたが石窟は残り、昔は国境の防衛が厳重だった

道ばたには水車が回り、谷の水は山を穿ち山は水を挟む

見上げれば蜃気楼が虚空に懸かり、山の腰に半ば、雲の中に半ばある

鬼斧神工の造形は奇異で、定めしは班超が遺した絶技であろう

壮観な刻石のある太白祠、羅漢洞の前には紫色の霞がかかる

達磨が西から来て面壁した場所、李牧が辺境を巡視してここに駐屯した

雲閣と虹橋が曲がりくねって登り、曲がりくねった谷が十里続く

しばらくして山腹に下り岳麓に着き、三元宮の院は気が森厳である

峰の高さは三千九百丈七尺、渺々と茫々と、岩々として赫々としている

雲路を初めに登り一歩一歩高くなり、停旨嶺の前で仙の跡を尋ねる

望仙楼、飛仙鳥、私は仙人に出会って永遠に朝夕を共にしたい

虎口の風は気が盛んで、龍が洞から出て雲が石に当たる

劉阮が天台に入ったかのような気がし、また重華が大きな沼に迷ったかのような気がする

恒宗の大字は丈八ほどもあり、紫霞洞の前には碧い峰が聳える

果老は驢に乗り四兵を担ぎ、山腹を踏みつけて血痕を残した

閻道は羽化して根拠を尋ね、得一庵の前に窟宅があった

自然の造形は洞を深く暗くし、上は寝宮に至り仙人と凡人を隔てる

虎峰は威猛で高い丘に臥し、胡不為はその魂を奪われた

古くからの松柏は龍蛇となり、爪を舞い上げ牙を剥き鱗甲が逆立つ

さらに、懸根連理の樹があり、張果が驢を繋いだ場所に立ち止まった

紫微の楼閣が星垣を映し、三茅窟からは煙霧が吐き出される

飛鸞が霊験を顕し呂純陽、大王の風は朝晩臨む(呂祖、大王などの廟)

ここの雲山は缥缈として、常に仙人が出会って語る

この山腹に至り勢いは幾分緩み、白雲堂の前は雲が保護する(現在の接官亭)

堂の傍らには霊泉があり苦いものと甘いものに分かれる(玄武井)、雨乞いすれば必ず応じる

方形の池を掘り、地から泉が湧き出て、源源と絶えることなく流れ続ける

時には神を冒涜すれば千神は怒り、必ず悔い改めて香を焚かねばならない、さもないと水洞は風を鳴らし災いが多くなる

夕陽嶺の下から夕焼けを眺め、五色の斑が鮮やかな夕日が傾く

見上げれば円い雲が洞から出て、青龍と白虎がお互いに騰がる

神龍は雨を降らし雷車を押し、丁甲太乙は彩雲を踏む(青龍、白虎、龍王、太乙などの寺)

ここに至り全ての山々が伏し、下界の人々を見下ろすと虫や砂のようである

階段を登り着替えて疲れを忘れ、貞元殿に誠実に拝謁する

琳宮宝刹は清虚に建てられ、万脈は朝拝して皆北を向く

二気が調和し海宇は清らかで、雲煙が赤縣を覆うことはない

今、呼吸は帝の住まいに通じ、気は長虹のように目には電光が走る

物事から離れ心は清らかで、塵世の煩わしさは何の価値もない

蔵経楼には道蔵の経典が収められ、風雨を遮る大丈の松がある

九天宮は凌雲閣に繋がり、曲がりくねって木龍を眺める

澗の東の紫峪には霊芝が美しく、岩の西の遺跡は翠雪に覆われる

石脂図の辺りは光り輝き、奇花瑶草は薬草が青々と茂る

昔日舜帝誠に天に格たり、望祭飛来峰の前に堕つ

我石窟を観るに拠り難し、何ぞ飛来して復た飛去せん

斉東野人の語を勿れ、身を聳えて直ちに最高頭に上る

山外に山を見、楼外の楼を見る、昂首天外に何ぞ悠々たり

眼底十二州を収め、耳松濤の吼ゆるを休まず聞く

御碑を読み終えて双眸豁たり、会仙府内に道流を訪う

集仙洞中に斗牛を瞰し、琴棋台の畔に且つ優遊す

当年王子観棋、鐘子聴琴を見ること無し、何処に求む

金鶏高唱し韻長く流れ、玉羊叱るに乱れて頭を振る(石を撃つものあり、声鶏鳴の如く、又石羊形のものあり)

更に一谷あり玄幽に通ず、薬炉丹亀猶ほ遺る

上は禹穴一线の潜溝に通じ、下は太元宝泉の源頭に通ず

嗚呼、此時我神仙の気慨に侔る

偶に低徊して一猛省し、忽ち恒川羅八景を見る

遠望晴雲淡く綃の如く、印月神溪丸跳井

積雪皑皑と霽龍山、天風呜呜と松嶺を吹く

寒溜一帯玉泉を繞り、金魚池中に岳影を倒す

何処に夕日照り迥たり、秋色清華柏嶺を求む

忽ち天黒く気昏沈し、下に見るに城堙亀鎮静

六合茫茫として夢中に入り、顛倒して何ぞ不幸たり

移時中天赤日出で、万種の陰霉尽く銷失す

晩来甘雨塵氛を洒き、一に乾坤万古を新にする

 

 

▲《恒岳訪古》 篇首前図を見る

 

 

校对:雪芳

編集:学琳

 

作者紹介

  麻席珍(1872—1943)、字は聘庵、号は国華、山西省渾源州水磨疃村の人、光緒壬寅科挙人(渾源挙人同年六人、順に王荩臣、程廷遇、麻席珍、王彰善、姚德厚、張鳳鳴)。歴任拣選知県、法官、教員、河南藩署咨議局各委員、旅汴中学堂監督、第二師範学堂監学、陝西省長安審判庁推事、山西省太原地方審判庁民庭庭長、聞喜県代理知事、渾源中学校教員暨校長、山西政治実察所所員、晋城県代理知事・知事、沁水県知事等の職、1925年辞職して里に帰る。1927年、渾源県長李賛襄省府の命を受けて「功在郷邦」の扁額を授け、院首門楣に懸ける。

  麻席珍は民国時代の渾源の著名な縉紳、退任して故里に帰った後、潜心して著述する。李峪銅器を記録した『渾源出土古物図説』、自選作品集『雪鴻集』、主纂『麻氏族譜』等を著す。およそ『七七事変』の前後、麻席珍は仏教を念じ、長く北平仏学院に住み、没する二年前渾源県城の家に帰る。

キーワード:

国の自然