小説の北岳大帝について
公開日時:
2025-03-14 15:15
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一般的に北岳大帝といえば、人文始祖の顓頊の他に、明末の許仲琳が著した『封神演義』で姜子牙によって北岳大帝に封じられた崔英が有名です。
一、許仲琳と北岳の改祀
許仲琳(約1560年~約1630年)、号は鐘山逸叟、応天府(現在の江蘇省南京市)の人、明代の小説家。生涯については不明な点が多いが、『封神演義』の作者であると伝えられている。現存する最古の『封神演義』は、明代の万暦年間、金阊の舒載陽が刊行したもので、日本の内閣文庫に所蔵されている。巻二の題名に「鐘山逸叟許仲琳編」とあることから、多くの学者は『封神演義』の作者を許仲琳と考えている。しかし、これは唯一の証拠であり、許仲琳の生涯についても不明な点が多いことから、彼が本当に作者であるかどうかは、断定できない。
明の世宗朱厚熜は明の第11代皇帝で、1521年から1566年まで在位し、年号は嘉靖。後世では嘉靖帝と呼ばれる。嘉靖帝の治世には、渾源の恒山が北岳として位置づけられており、嘉靖帝は欽差大臣を渾源の北岳恒山主峰に派遣し、最高の霊芝を12本採取させた。霊芝探しに参加した地方官吏は皆昇進し、多くの史書や碑文にもそのことが記録されている。当時、「北岳恒山は渾源にある」という見解は朝野で広く認められていたが、礼部尚書倪岳らの反対により、渾源への移祀は承認されなかった。『明史・列伝』には「倪岳、字は舜咨、上元の人。父は謙、北岳の祭祀を命じられ、母は緋色の衣を着た神が部屋に入ってくる夢を見て岳を産み、その名を岳とした。謙は南京礼部尚書となり、文僖と諡された。」とある。倪岳は父が曲陽の北岳廟で祭祀を行った後、母が北岳の神が部屋に入ってくる夢を見て彼を産んだため、北岳の渾源州恒山への移祀に反対したことは理解できる。このため、渾源の北岳恒山への移祀は、時勢としては既に必然であったにもかかわらず、清の順治の治世まで遅れることになった。許仲琳は嘉靖帝の没後6、7歳であったため、『封神演義』を創作した頃には、渾源に北岳恒山があることを明確に認識していたはずである。許仲琳と同時代の徐霞客(1586~1641)は、没後3年後の1633年に渾源の北岳恒山を訪れ、『北岳恒山遊記』を著している。これは、当時渾源の北岳恒山が広く知られていたことを示しており、許仲琳が小説の中で崔英を北岳大帝として描いた際の北岳とは、渾源州の北岳を指していると考えられる。

礼部尚書倪岳の書作品

恒山紫芝峪の霊芝
二、封神榜の五岳大帝
『封神演義』第九十九回には、姜子牙が玉虚宮で元始天尊に拝謁する場面が描かれている。碧游床の前に進み出てひれ伏し、「弟子姜尚、老師の聖寿無疆を願います!本日は老師に拝謁するため山に登り、陣亡した忠臣孝子、劫難に遭った神仙たちに、速やかに位を授け、さまよう魂が寄り所なくさまようことなく、一日も早く望みを叶えていただくため、玉符と勅命を賜りたいと願います。老師の慈悲を賜り、速やかに実行していただきますようお願い申し上げます。諸神、そして弟子も幸甚です!」と述べる。元始天尊は「既に承知している。一旦戻りなさい。まもなく封神台に符と勅命が届くであろう。速やかに戻りなさい。」と答える。子牙は頭を下げて礼を述べ退席する。このやり取りから、封神の権限を誰が握っているか、封神の目的、封神榜に載る人物の構成が明らかになる。その後、姜子牙は封神台で玉虚宮元始天尊の誥勅を読み上げる。「……劫運の軽重、資品の高低に従い、爾らを八部正神に封じ、各司を分掌させ、周天に配置し、人間の善悪を糾察し、三界の功行を検挙する……」とあり、封神の基準、前後順序、品位の等級が明確に示されている。崔英は商の紂王を打倒した義軍の将として戦死したため、北岳神に封じられたことには根拠がある。
封神榜には、周天三百六十五柱の正神が封じられており、その中には七人の大帝が含まれる。瘟癀昊天大帝に封じられた呂岳、中天北極紫微大帝に封じられた伯邑考に加え、残りの五岳大帝五名は、黄飛虎、崇黒虎、文聘、崔英、蒋雄が占めている。姜子牙は「爾ら五人は皆、忠義を貫いた。功績の深浅はあれど、特異な栄誉を授け、その功績に応じて位を定める。」と宣言する。第一位は東岳泰山天齊仁聖大帝:黄飛虎。黄飛虎は元々商の鎮国武成王であったが、紂王が妻と妹を殺害したため、西岐に逃亡。周に帰順後、幾度も功績を挙げた。死後、「暴君の残酷さに遭い、他国に逃亡し、流離転々とした悲しみを味わった。志を奮い立たせ知恵を尽くし、陽針の劫難に遭遇し、凶禍に遭った。その事情はまことに悲しむべきである!」として、五岳の首位、東岳泰山天齊仁聖大帝に封じられた。天地人問の吉凶禍福を総管し、幽冥地府十八重地獄を掌管し、「生死転換、人神仙鬼の全ては東岳で勘合され、初めて施行される」。第二位は南岳衡山司天昭聖大帝:崇黒虎。崇黒虎は元々北伯侯の麾下の曹州侯であったが、姜子牙と結託し、兄の北伯侯崇侯虎を殺害し、自ら北伯侯となった。崇黒虎は神鷹を操る術を持っていた。神鷹を頼りに幾度も功績を挙げた。「崇黒虎は民を救済する志を持ち、劫運に遭遇した」ため、死後、南岳衡山司天昭聖大帝に封じられ、五岳の中で二位となった。第三位は中岳嵩山中天崇聖大帝:文聘。文聘は飛鳳山の首領であった。死後、中岳嵩山中天崇聖大帝に封じられた。飛鳳山の長であったため、五岳大帝の中では三位となった。第四位は北岳恒山安天玄聖大帝:崔英。崔英は飛鳳山の二大王で、文聘と共に崇黒虎に帰順した。死後、北岳恒山安天玄聖大帝に封じられた。第五位は西岳華山金天願聖大帝:蒋雄。蒋雄は飛鳳山の三大王で、文聘と共に崇黒虎に帰順した。死後、飛鳳山では三番目であったため、五岳大帝の中では最下位となった。姜子牙は「三人は義兄弟の契りを結び、力を合わせ、忠義の志を固く持ち、股肱の志を尽くさんとした。しかし、陽運が尽き、志半ばで亡くなった」ため、五岳大帝の列に加えられたと述べている。

北岳大帝の神像
三、崔英と崔府君
在民间也有地府崔府君是北岳大帝的说法。《搜神广记》、《磁州崔府君神异录》等典籍都记载说:崔府君,姓崔,名珏,字子玉,其父崔让,乐善好施,年近五十,膝下无子,遂与其妻同往北岳祠祷祝求子,夜梦北岳神赐双玉,夫妻吞入腹中,从而生下崔珏。又据《太清金阙玉华仙书八极神章三皇内秘文》记载:“北岳司命者,乃唐臣崔府君也”。所以,崔府君是北岳大帝也是有据可查的。

崔府君墓志拓片
崔府君形象从北岳神中产生,其信仰最早兴起于唐代,盛行于宋金,以磁州为中心,仰流行于晋冀二省,掌鬼之职能。有学者指出崔府君名号来源之一有敦煌变文《唐太宗入冥记》中的冥府“崔判官”,此即日后崔府君演变之根本。宋仁宗景祐二年,封崔府君为护国显应公。元符二年,改封为护国显应王。政和七年,加封护国显应昭惠王。
《说岳全传》第二十回“金营神鸟引真主,夹江泥马渡康王”。描写了靖康之难,徽钦二帝被俘,康王赵构被当作人质扣留于金,康王借机从金营侥幸逃出后,被金兵追赶慌不择路,逃入绝境。正在危急之时,忽见树林中走出一个道服打扮、牵着一匹马的老人,他催促康王赶快上马过江,并嘱咐他途中不要睁开眼。康王骑在马上,不到一个时辰,马已越过江飞奔上岸。岸边有一座破庙,庙门上有个旧匾额,写着“崔府君神庙” 五个金字。破庙院子里站着一匹泥马,颜色却与刚刚他骑来的马一样,马身还是湿淋淋的。康王猜测此马定是救自己的那匹马无疑。随后,他忽然失声道:“那马乃是泥的,若沾了水,怎么不坏?”言未毕,只听得一声响,那马即化为尘土。康王走上殿许愿道:“我赵构深荷神力保佑!若果然复得宋室江山,那时与你重修庙宇、再塑金身也。”一会儿,当地磁州丰丘县令都宽缘于崔府君托梦,也赶到庙里接驾。后来,赵构当上皇帝后,加封崔府君为“护国显灵真君”,视为护国之神。于是,崔府君崇拜大盛于南宋。
金元之时,南宋建崔府君庙于首都临安,把其作为护国神灵继续供奉。金元统治者基于从地域到国家对汉文化的认同,所以对崔府君也很崇敬。因为南岳在南宋境内,金章宗居然加封崔府君亚岳神。元政府也曾祭祀过崔府君庙,元世祖至元十五年,遣官祭五岳。中书省奏:“今南北一统,南岳祀宜远衡山。崔府君更封新号,封齐圣广佑王,与五岳岁时同致祭。”元成宗时,封崔府君为灵惠齐圣广祐王。从这里可以看出,崔府君曾经以护国神的最高等级神仙被供奉过。
笔者认为,也许就是受民间传说及皇帝分封的影响,许仲琳才创作出《封神演义》中的崔英这个人物形象,所以北岳大帝崔英可能就是被民间争相供奉、香火不断的地狱首席判官崔府君。当然,崔府君和崔英是否同一人,这个也只能留待更多的研究资料证实了(恒山愚人)
キーワード:
国の自然

















